昨日、長崎にでかけまして、本日念願かなって「遠藤周作文学館」に行ってきました。
角力灘(すもうなだ)に面した、素晴らしいロケーションの地に建っていて、
中に入ると、きれいなステンドグラスから漏れる光の中に、大きな遠藤さんの写真パネルがあり、「久しぶりですね!」と心の中で声をかけてしまいました。
展示室では、遠藤文学と長崎に関する事がたくさん読んだり、見たりすることが出来、隠れ切支丹や棄教した人々のこと「沈黙」や「女の一生」に思いを馳せました。
長崎に行く前に読んでいた「落第坊主を愛した母親」を読んでいた私は、棄教者や、棄教しながら再びキリストに帰依するに自分の身を重ねていた遠藤さん、キリスト者でありながら、棄教者に興味を持った遠藤さんが浮かび上がってきました。
そして、遠藤周作さんにとってのマリアさまはお母さんと重なる所があったような気がします、文学舘に飾られたマリア像、それは遠藤さんのお母様が使われていたものをその後遠藤さんがいつもそばにおいていたマリア像でした。この姿があまりに美しく、クリスチャンでない私も、その姿は忘れられないものになりました。
私はクリスチャンではありませんが、何故か隠れ切支丹のことに惹かれたりします、そして、300年以上前日本にきた、たくさんの宣教師達の強い意志を持った信仰心に驚かされます。
キチジローが本来の人間であるような気がしたり・・・
コルベ神父のような人が実際に存在してるし・・・
ひどい拷問を受けながら、殉教していった人もいるし
自分が棄てない事で、苦しんでいる人がいるんだということを突きつけられ踏絵をふんでしまう宣教師がいたり
フェレイラ改め沢野忠庵になった人がいたり・・・
あぁ~ 人間とは強くていいのか弱くていいのか・・・遠藤さんは強者と弱者にわけていた部分もあるけれど、ほんとは強者、弱者 両者でいいのではないのかと考えていたのではないかという気がしています。
外海(そとめ)地区を案内してくださった、タクシーの運転手さんが、「このあたりは昔から山々に囲まれ、入り江 入り江で文化がなりたっていて、他の村との親交もなく言葉も微妙に違います。そんな場所で、子供を育てようにも、食べるものがなく、自然災害に苦しめられ、子捨てを行っていたんです。そういう場所に、キリスト教を布教する人があらわれ、信仰について、知ったとき、深く深く浸透したのではないか、厳しい弾圧がはじまるまで、地区ごとに違う言葉で、キリスト教が浸透していったようです」というようなことをおっしゃっていました。
このような話を聞けた事、遠藤周作さんを偲ぶ場所をたくさん見ることができたことが、うれしく、今後もまだ読んだ事の無い遠藤文学を読み進めたいと思いました。
第2展示室には、狐狸庵先生の楽しいお話や、病院や樹座・宇宙棋院のことについてたくさん展示されていて、ふふふふ’と笑えたこともたくさん!
長崎から車で40分ほどで、交通の便のいいところではありませんが、遠藤周作文学館をはじめ、出津文化村や、黒崎教会は行ってよかった!と思える場所になりました。
文学舘からの景色ほんとにいつまでも忘れないと思います。
いつかもう一度行けますよぅに、 また違った感じ方ができますよぅに・・・
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